厳格な娘

あるときから、母のことを自分の直接の母というよりは父の妻だと思うことにし、父のことは母の夫にすぎないと思うことにした。思うというより元よりそうだったことに気がついたという感じだ。そう思わないと時たまの激昂、いやそんな言葉では追いつかないほどの瞬間最大風速にすべてを薙ぎ倒されるような怒りに正当性を与えることができない。

 

言葉にするということをしない夫婦である。父の妻であるところの母(疲れてきたので以後母と表記)はすぐに私が全部悪いと言って泣くし、いつもそうだからどんどん信用の価値は下がるのだが彼女はいたって本気であるから始末に負えない。母の夫であるところの父(以後父と表記)の機嫌を取ることが母のすべてで、二人の宇宙は二人で完結していて、子供をなぜ三人もうける必要があったのか、いや父の理想としていた家庭のためには三人必要であったのだが、彼の理想は今のところ叶っていないし、生きているかぎり叶うことはないだろう。言葉をあきらめ、察してもらえるべきだと強がる人間を許すほど私は甘くない。私はあなた(たち)の娘であって(たち、というのはつまり母は自分の輪郭をなくして父と同一化し、父と「同じひとりの人間」になってしまうことがある)、持てなかったかつての家庭のやり直しの形代ではない。不器用さなどというものに甘んじず、なんらかの思慕の情を持つことができるように、してもらいたかった。私は不完全なふたりの人間のあいだに生まれた存在にすぎない。父や母や、すなわち両親、という言葉ではないもののあいだに。誰だってそうだ、あなただけではないのではないかという人もあろうが違う。「誰だってそう」なんかではなく、きちんと、両親というもののあいだに生まれた人間はこの世界に存在する。ただし、私はそうではない、そのことに、幾たびも激昂する人生である。

 

父を立派な人間かもしれないと思うが好きだと思ったことはない。嫌っているというより厭わしい。父親を好きだという感情、娘をかわいがっているという父親というものの感情が、単純に私にはわからぬ。私は一生、その「好き」を知ることはできないのだと思うとき自分の欠落を強く実感する。

 

数週間前、母が自分のと妹の雛人形を飾ったと連絡があった。送られてきた写真には、私と妹と弟が幼稚園のころにつくった人形たちもおさまっていて、なつかしいわね、と返すと「ママの宝物よ」と言われたので、冷静に驚いてしまった。自分の子供が小さな頃につくった造形物をまだたいせつに思っているほどに、この父の妻が、私たち姉妹弟の母としての感情を持っているなんて信じられなかったし、信じられないと私に思わせるようなふるまいを続けてきた彼女の無邪気さが底知れない、と思った。